定期的にブログを更新すると言っておきながら、忙しさにかまけて放置していました。精神的にゆとりがなかったのでなく、単に他に目が行っていたことに尽きるのですが。締め切りがあると頑張るが、締め切りがないと後回しにした、単にそういうことと似ています。3日坊主と言う言葉がありますが、今回は1日坊主でした。しかし、このブログが大切でないと言うわけではありません。ストレートに大切と言わずに、否定の否定になり、曖昧にしていますが。

 さて、年をとるにつれ、時間の経つのがますます早くなったようです。子供の頃を思い返すと、一日がすごく長くて、一杯遊べた様に思います。最近の会議はあっという間に時間が過ぎ、次の会議や委員会、はたまたカンファレンスと続きます。沢山出来事があり、体験し、費やす時間を足すと1日が長くなる訳ですが、振り返ってみると、1日が短いのです。なぜなのでしょうか。

 時間は客観的なものであると供に、主観的なものでもあります。ある一定の客観的な時間に、沢山の覚えることや興味を引く出来事があると、主観的な時間は長くなるといわれています。ある実験では、客観的な3分間の長さと主観的な3分間の長さは、高齢になるほどズレて、主観的な時間は、客観的な時間を大幅に超えます。簡単に言えば、高齢になると頭の回転が遅くなると言うことなのでしょうね。しかし、回転は遅くとも、一杯時間を費やしています。おかしいと思い悩んでいたのですが、ふと思いつきました。そういえば、時間を費やすものの、新しく覚える内容は少ないようです。全体がほぼ連絡事項です。新しいことは1つか2つありますが、頭で覚えず、手帳に書いています。多分、手帳には沢山のことが綴られるのでしょうが、海馬は働かず、そのために時間を使ったと感じないのかもしれません。では、手帳に書かずに、これらの内容を全部覚えれば良いかなとも思いましたが、今の私の頭では多分容量が足らないでしょう。さらに、つまらないことを全部覚えたって仕方がないと思い、やはり最初から覚える気がないことも自覚しました。だから、時間が早くたつことになり、結局、1日が短いと感じるのでしょう。子供の時のように、もっと大切なことをやり、時間がゆっくりと流れる体験をしたいと思うのですが、もう年齢的に無理なのでしょうか。
 
 ルキウス・A・セネカは、「人生の短さについて」の著書の中で「時間は自分のために使うべきだ」、「多忙な人が年をとっても、長く生きたとは言えない」と述べています。耳が痛いですね。また、時間学会の説では、時間を長く感じるようにするためは、①十分な睡眠や食事を取り、新陳代謝を下げないこと、②マンネリの生活を避けるように、少しずつ新しいことに取り組み、充実した時間を過ごすこと、③強い刺激や恐怖の感情を体験すること、④時間感覚のずれを意識して、日々調整すること、などを提案しています。ということで、(今日は遅いので)、明日からやってみようと思います。そうすれば、このブログも頻繁に書けるようになるかもしれません。